最近の雑感いろいろ
最近の雑感をいろいろ。
最近の中国の工業製品の伸びはすごいですね。
海外からはもう総合的には日本の技術は抜いたという評価があるようで。
まだ私の本業の理化学機器分野では全然抜かれてはおりませんが、かり迫ってきていますね。
慌てて開発しているので品質は疑問(たとえばEVの電池などはまさに)ですが、時間の問題?か10年単位のスパンで見ればよくなっていくでしょうし。
自動車などは日欧米では出さない安全ではないレベルで採用しているかんじではあります。
とにかく安くだして市場を奪い、それから性能を高める。
ウチの業界でも中国は「半額で二個つけます、壊れたらそちらを使っていてください」的な売り方をするそうで(笑)。まぁ、壊れやすいので、ということもありますが。
なりふり構わない。
この記事も、アナログオペアンプ記事、TIの製品の性能に迫って代替している、みたいに書いてあります!!!(^0^)中国系の人が書いたのか、そういった文章を読んで知ろうとがまとめたのか?
ですが、、、、私の見立てではSG MICROの製品はようやく旧新日本無線、現日清紡マイクロデバイス製品の近い性能くらいかと。CMOSプロセスだそうで。JFETは難しいな。
汎用品はTIやADIと同等レベルにはなってきていますが、ハイエンド製品が全然この米国2社においついていない、というか、当面追いつけないでしょう。
ただ300mA出力のオペアンプがあるのはおもしろい。ニッチ?きっと中国内D要望があるのでしょうね。(ADIはパワーオペアンプや高耐圧オペアンプに力を入れるとのこと)
ADIやTIのハイエンド製品は軍事転用されてしまうので中国ロシア北朝鮮には輸出していない?と思われます。秋葉原等で手に入らなくなりました。
反面MouserやDigiKeyで手に入りますが、中国へはハイエンド製品は発送していないはず。
中国もサンプルは手に入れているでしょう。日本でダミー企業でも作って買えば買えるでしょうが、多量となると、売らないのでは?
ウチの会社など日本企業はよいな、と思うのは、基本的に制限無くハイエンド製品が手に入る。ここらの技術はアメリカに仕切られているので。
先日はADIから、通常は技術サポートは代理店経由なのですが、「御社のような会社は重点的に直接ADIがサポートします」ということで、FAEの人と直でやりとりしています。
ADIだけでなく、リニアテクノロジー社のもかつて、たびたび米国から直でFAEが来ました。
日本は信頼されている。
オシロもこんなのこの価格で出されては・・・ただ、細かな性能は??ですがね。
https://www.alibaba.com/product-detail/FNIRSI-2D15P-Dual-Channel-100MHz-Signal_1601627916479.html?mark=google_shopping&pcy=jp_ja&src=sem_ggl&field=UG&from=sem_ggl&cmpgn=23168214182&adgrp=190401177074&fditm=&tgt=pla-293946777986&locintrst=&locphyscl=20636&mtchtyp=&ntwrk=g&device=c&dvcmdl=&creative=780206629581&plcmnt=&plcmntcat=&aceid=&position=&gad_source=1&gad_campaignid=23168214182&gbraid=0AAAAAD8m77qixwG5Rc4Z62CcaKaT4H3GM&gclid=EAIaIQobChMIx4qa9bWfkwMVs10PAh1bJjLmEAQYAyABEgJOg_D_BwE
↑の会社はできて10年ほどの新興メーカーのようです。中国か、日米欧かどこかの選考メーカーから技術移転があったのでしょう、そうでないとできないです。
RIGOLはキーサイト(旧HPからの流れの会社)の下請けだったようで、キーサイトのページでも中古品のRIGOLが買えたりしますが、ここらはキーサイトからの技術移転でしょうか。逆にキーサイトのハイエンドは作れない。おそらくキーパーツを中国へは出していないのだと思います。デバイスを作れる会社はつよいです。
AIの進化もすごいです。
こちらはアメリカの話。昨年の今頃は、なんだこの結果、という程度だったのが、今はまずまず役に立つ内容を出してきます。ChatGPT、Gemini等、、、
ですが電子回路関連はまだまだです。ところが、↓
理系専用AI
gpai.appなかなか使えます。ちゃんと適切なオペアンプまで例題で出してくれたり、物理の問題を説明してくれたり。
トランスインピーダンスゲイン1GΩでトランスインピーダンスアンプを設計させたらちゃんとリークがpAオーダーのオペアンプを選定してきた。まだ入力にぶら下がるCの帯域への影響は解析しませんでしたが、、、そこの絞ってやらせればできるでしょう。
これからはAIをうまい具合に使いこなせないと生き残っていけないでしょう。
ヘッドフォンの話
ちょっと突然別の話題になりますが、
知人から教わったこのヘッドフォン、なかなか安くてよいです。
Beyer DT270 pro
倍の価格のDT770より音がよいと思います。
ALSになった母の話3
24年1月後半からまた入院、NPPVに慣れるため。
「これはダメ」と母、相当大変だった。
過去1回やっているのだが、、、
小型のドイツ製のNPPVであった。持ち運び用意。バッテリーで30分程度はもつ。小さいのに安定した動作、電子機器の設計は散々やってきたが、このように止まったら即死のような製品の設計はしたことがない。徹底した動作実験の積み重ねでできているのであろう。マイコンも暴走してはいけない、自己復帰なのだろう。凄い製品である。家にあった古いUPSで動作もさせられたので移動の時に使える。
省電力を測定したが、空気を圧縮して出す瞬間は100W越え。
物凄い風圧で肺の中のCO2を外に追い出す。慣れないと大変しんどい、いや慣れてもしんどいかも。
レンタル担当者によると「ほとんどの人が勝手に外してしまう」母もそうであった。
ここで病院の看護師スタッフに問題があることが判った。
ようは聞く人によって回答や対応が違う。
NPPVは口が渇く。なので水が欲しいわけだが、飲むと誤嚥性肺炎を起こすので飲んではダメ、とい言われていたが、
うがいがOKかうがいもダメか、看護師によって対応が違った。リーダー格の人はうがいOKであった。
また、勝手にNPPVを外してしまうので、手を縛り付けることになった。トイレは管を入れてのことになった。
それとNPPVのマスクが外れない用に強く縛り付けた。差し歯とマスクとの間の上顎に褥瘡ができて、上唇の上に穴が空いてしまった。
はやりこれが最悪な事態であった。
母は二週間前までは一人で二階に上っていたのだ。
また家族が居るときは腕の縛りを取ったのだが、起こしたり立たせたりしたら怒られた。先日まで普通に歩いていた人を縛り付けたらおかしくなるでしょうが。
やはり母は少しずつおかしくなってきた。一日中目の前にかかっている水彩画と天井の医療機器を吊すレールを診て過ごす。
多少幻覚のような感じになってきた。絵が気になったようで、絵を交換しないのか、とか、絵は持って帰るのか、とか言い出した。
最初は絵をどかして欲しい、と言うかんじだったが、そのうち、絵を描くのが趣味だった父の絵とタッチが似ていたので、父の絵だと思い込んでいた。
そのうちようやく看護師・医師も、まだ動けることが判ってきたようで。どうももう立てないなどと思い込んでいたのかも知れない。これは訪問診療医師との意志の疎通が悪かったのか。
1週間くらいしたら簡易トイレがベッドサイドに用意されていて、もう縛りもなく、自分でトイレをしていた。
少し歩くこともやっていた。NPPVは小さいので、トレイに乗せて押す人が居れば、院内散歩など可能であった。
拘束を解かれたあとは幻覚症状的なものは無くなった。
一部の看護師が、歩ける母を見て、我々家族の前で、気まずそうにしていた。
徹底して縛り付けていたからだ。起こすのもダメ、と怒っていたが、医師の判断で起こせるようになった、というか、入院直前までに二階に自力で上がっていたし。急に縛り付けられたらおかしくなります。
さて慣れてきたので退院を考えるようになったが、家で看護するは難しいだろうという事になった。デイケアの受け入れ条件も、NPPVだと難しいという事だった。
24年2月初旬、施設を探すこととなった。
病院がそういったことのケアもしてくれる。専門のスタッフが探してきてくれていくつかの施設を紹介してくれた。
その中で近所のA施設(少し安い)と、ちょっと遠いB施設(少しお高い)を選んで、見に行くこととした。
Aも、全国展開している業者のもので、出来たてのほやほや、新規割引も入ってお得であった。
僕としてはAで良いのかな、予算の都合もあるし、と思ったのだが、家族は断然Bがよい、と言った。
確かにBはちょっと遠い(車で30-40分)、入居費用も1割以上高かったが、設備がよかった。僕がBで心配だったのは、他にこの事業者はこういった施設を運営していなかったため。「大丈夫かな」とは思った。結果としてBを選んだが、Aを見ていない以上判らないが、Bで大きな問題は無かった。
24年2月後半、入居が決まった。病院に介護タクシーを呼び(区の身障者のためのタクシー券が使えた)、ストレッチャーで寝たまま移動した。
家族はいろいろ必要な物をそろえて、施設に向かった。NPPVや酸素生成器も一緒に。
施設は、難病患者を中心に受け入れるところ。こちらも出来て1年、この時点で満室では無かった。スタッフも満室分の人数がいなかった。
ほかにもALSのかた当時2-3名いたらしい(その後7名)、他様々な病気の方がいたようで。HIVでエイズを発症された方もいると聞いた。癌は病院のホスピスには入れるが、難病やHIVはホスピスでは受け入れない。
金額はそこそこお高いが、
母は胃ろうで食事代がない
難病で医療費の助成が大きい
そして、父が公務員で、共済会年金というものがり、これがかなりの金額であって、助かった。なんとか毎月の支払いが可能であった。
ケアマネージャーは施設のかたに変わった。以前はデイケア施設の担当だった。
車椅子やストレッチャーのまますっと入れるお風呂が魅力的であった。
施設の作りもよかった。
深夜でも事前申請で訪問可能であった。
コンセプトは「自分の部屋ごと入居」のような感じであろうか。友達いつでもウェルカムの体制。
一階のロビーが広く、地下にイベントを開けるような空間もあった。
そして何より、「できるだけ患者さんのしたいように」
医師と相談の上であるが。訪問診療クリニックと「延命処置はしない」という方向。
誰かいるところではお茶も飲んで良い。病院のような制約は少ない。
至れり尽くせり。このくらいしてもよい。
医師は常駐では無い。訪問診療として、契約しているクリニック。
運営施設と繋がっている訪問看護の事業としの看護師常駐。
ほか、訪問介護、訪問リハビリ、訪問マッサージ(リハビリ師から指導を受けての)、訪問歯科、訪問薬局。
それぞれと契約する。施設との契約以外はだいたい在宅で診ていたときと同じ。また多量の契約書を書いた。何回母の名前を書くのかって感じであった。
ただ、訪問診療以外の通院は難しかった。耳鼻科等は連れて行くしか無かった(が結局行かずに済んだ)。
たとえば後に、NPPVが必要になったことで身体障碍者のレベルもアップするのではないか、と医師に聞いてみたが、呼吸器の専門医の判断が居るので、たの診療所に受診に行かないとだめだ、ということで実現しなかった。
ここらは、訪問である程度体制を整えて欲しかった。
母は結果的に、この施設で1年2ヶ月半ほど暮らした。
最初はいろいろあった。
あれが足りない、これを買ってきて欲しい、等々、、、
色んなものを用意した。幸い、施設のすぐ近くにホームセンターとスーパーがあったので、大抵のものは揃った。トイレ関連、NPPV加湿用精製水(ヨドバシとかAMAZONで買って、施設に直接届けた)。口腔ケア用品。口が渇くので臭かった。のちにお茶など飲んで良くなったことと、歯科のケアによって、口臭は激減した。
この施設は私の弟の家からはさほど遠くない。週二回、弟に来て貰った。衣類の洗濯は任せた。
最初のうち、神経の関係で排尿は管をいれていたが、すぐに取れ、おむつもしていたがほとんど自分で簡易トイレに行けるようになった。
おむつは区からの例の支給、施設に直接送って貰った。
だんだん落ち着いて、5月頃に冷たいお茶を欲しがったので、冷蔵庫の検討をした。中古でホテルの部屋にあるような小型冷蔵庫を買って来て設置した。
入院している頃よりまったく落ち着いた母。
ただ、日々退屈ではあったようだ。テレビをみたり、慰問のイベントに参加したり。
コンサートは楽しみにしていた。
弟の義理の母がいろいろな書籍を持ってきてくれた。
それらを読んで感想など書いていた。
うちの子の写真を一杯プリントして、部屋に並べた。
何時も寝るとき、写真に向かって「おやすみ」といって寝るのだとか。
室内は、だんだん歩けるようになってきて、簡易トイレも不要、個室内トイレに自分で行くようになった。NPPVを乗せたトレイを自分で押して。
導線確保、ケーブルやチューブをスパイラルなどで綺麗にまとめた。
うちの子を連れて行くと、とても嬉しそうだった。毎回ハグしていた。
二人の孫と会うのが唯一の楽しみ、みたいだった。
来られないときはテレビ電話で話した。もうかなり言葉を発せなくなっていたが、顔を見るだけでお互いよかったようだ。
そういうものかも。
NPPVは適宜、自分で付けたり外したり。それが出来るのが施設。苦しくなると付ける。病院のように完璧に付けようとするからおかしくなる。まだNPPVが無いとすぐ死んでしまう、という状況ではないのだ。
三回、帰宅した。24年3月、10月、11月。暑い時期は避けた。
11月時点ですら、サポートをつければ自分で二階にまで上れた。
介護ベッドは多少お金がかかったが、家に置いたまま(借りたまま)にしておいた。施設外使用なので実費であったが、一時帰宅したときには必要だった。なにせ布団の上では立ち上がれないので。ベッドは必須のからだとなっていた。
帰宅の際は妻も色々用意してくれて、柔らかい高級菓子店のプリンなど一緒に食べた。
ほとんど咽には通らないが、美味しいと。
手足の麻痺の進行は遅かったのか、足はずいぶん歩いていたので基礎筋肉がついているからなのか?NPPVはまわりの者が手もちして二階へ、酸素ケーブルはしたから送った。
※NPPVだが、初期は酸素なし、24年後半から酸素を供給し始めた。加圧だけでなく、酸素を外部から加えれば酸素供給も出来る。片手で軽く持てる大きさで何ヶ月も動き続ける。加湿タンクも付いている。本当によく出来た機器である。
家に帰ったときは、自分の持ち物の整理、といっても体力もさほどないので、金品高価なもの、大事な物を中心に。
ベッドの上で「やっぱ家が良いねぇ」は3月の帰宅の時。忘れられない一言だった。
ほんと、頭は、物忘れはかなり多かったが、しっかりしていた。
酸素不足が物忘れをおこしている様だったが、ちゃんとした会話は成立していた。
施設に訪問する親戚・友人、皆、まだまだ全然はっきりしているねと言っていた。
筆談がほとんどになっていたが、きちんとした会話が成立していた。
24年の確か4月くらいだったか、母の兄が施設に入った、とのことで、面会に行けるか模索した。行くことは可能であった。先方の施設、付きそい一人までとのことで。
ただ、NPPVのチューブが重たく、母の首が疲れている、ということでその時はやめにした。
母が兄と会う最後のちゃんすであった。24年7月、母の兄は亡くなった。
夏は暑いのであまり移動に適さない。秋に考えていたが、間に合わなかった。
24年11月以降はちょっと病状が進んできた。
NPPVも一回り大きな、圧力の高いタイプに変更された。
ペンを持つ力も弱くなり、文字もだんだん読みづらくなってきた。友人に手紙の返事を書いたが、前は実筆だったが、25年に入ってからは代筆になってきた。
ケアマネージャーに「そろそろ文字板の訓練をするころでしょうか」と尋ねたら、「お母上の性格上、ゆっくりやるべきではないか、もう少ししてからでいいのでは」(母は案外短気であった)とのことだった。
ALSと言う病気のことも、当初はなかなか理解していなかったし、忘れてしまっていた部分もおおかった。
徐々に何度も説明して、理解できるようになってきたようで。弟が、母の友人に病気の説明を手紙でしたいとのことで、ある程度詳しく教えたようで。
どんどん息が苦しくなっていくのは理解していた。
歩く方はあまり劣らなかった。
「もう思い残すことはない」
「はやくお父さんのところへ行きたい」
と時々筆談で漏らしていた。
24年後半から、時々転んで倒れていることが起きた。
施設で、床にセンサーを付けて貰い(センサーの種類も何度か変更して、試行錯誤してもらっている様子が分かった)、
最初は倒れたらすぐだれか来られるように、ということを考えたようだったが、トイレに立った時にすぐ来られるように、と変更したようで。
立つときの多くは飲み物を冷蔵庫から取るときと、それより多いのがトイレであった。先に書いたように自分でNPPVの乗ったトレイを押してトイレに行く。とのとき倒れることがあった。
立つ度に看護師や介護士が見に来るのは、母にとってはちょっとうっとうしかったようで。
25年1月、正月に施設に家族で集まった。
皆で集まったのはこれが最後か。
25年3月、義理の両親が東京に来る用事があるとのことで、
施設にも来て貰った。
結果、来て貰って良かった。いろいろ対話も出来た。
たびたび親しい親戚も来て貰っていた。
筆談ながら、まともな会話が出来ていて、歩けるので、
皆、「まだ何年かいけそうね」と言っていたし、僕もそのつもりだったが、、、
だが25年1月くらいか、一度また倒れて意識を失っていたことがあり、主治医から、「呼吸不全がかなり進んでいる」と、NPPVの種類も変えたし、酸素供給量も徐々に増やした。増や過ぎてはまたCO2が肺に溜まるし、あんばいが難しいらしい。
「今はよく眠れるように夜だけ睡眠薬を使っていますが、そんな遠くない時期に、昼もかなり息がくるしくなるでしょう。それを緩和するために、昼も睡眠薬を使って眠らせるようにしようと思います。ただそうなると、あと数日で亡くなります。覚悟しておいてください」
緩和ケアですね。
25年3月末、桜を見に施設を出て近所まで弟と三人で、NPPVを押し、車椅子を押して(さすがに10m以上は歩けない)出かけた。この施設に入って二度目の花見。
25年4月末ごろ、親しい親戚が二度目、来てくれた。
「まだ会話(筆談)もしっかりしているね、歩けるし」
「まだ何年かがんばれそうね」
これが亡くなる約一週間前。
最期は突然訪れた。
医師による、睡眠薬で緩和ケアするほどまで行かなかった。あるいは、誤嚥性肺炎で亡くなるという一番多いパタンでも無かった。
5月初旬、連休中、20時少し前、施設から携帯に電話があり、
「お母様、今自発的に息をしておりません。何分くらいで来られますか?
医師も今呼んでいますが1時間はかかりそうで。。。」
あ、、覚悟を決めた。間に合う可能性は低かったのは判ったが、まだ生きていて欲しいと思った。
妻は発熱していたので行くのは無理だった。子どもに言ったら、大きな声で
「行くよ!」
「え、ほんと?今から、、もう夜遅いよ?」
「行くよ!」
と言ってくれた。車を飛ばして約25分(夜は道は空いていた)。
弟は電話に出なかったので弟家族に電話した。どうも夜勤だったようで来られなかった。
部屋に到着すると既にある程度部屋も片付けられ、センサーなども外されていたが、NPPVは付いたまま、胸はNPPVで上下に動いていたが、ベッドで寝ていた。脈は無いようで。
手を握ったらまだ暖かかった。
子どもも手を握ってくれた。
医師が到着するまで、一緒に居た。22時ちょっと前、医師が到着した。
検死を行った。22時05分、死亡が確認された。力が抜けた感じだった。。。
死因は急性呼吸不全、となっていた。
死亡診断書を受け取った。85歳。享年で行くと数え年らしく86歳?
(死亡診断書に発症から死亡まで1年半と書かれていたが、これは違うだろう、ALS診断から死亡まで1年半であって、発症はALS診断よりさらに半年以上前、23年2月くらい、とALS診断書に書かれていたはず。こう言うのって統計に影響あるのでは無いかな?)
急だった。まだ話したり無い事がいくつかあった。
もっとゆっくり亡くなっていくものだと思っていた。
悔いが残る点がいくつかある。
まだ何ヶ月か対話できると思っていた。
早めに言いたいことは言っておくべきだったが、、、でもお礼は既に言えていたので。
亡くなると、早い。あらかじめ、母が「葬儀はここで良い」と言っていた近所の斎場に相談に行っていたので事は早かった。
夜中に搬送車が来てくれて、近所の斎場の安置所に安置してくれることにすぐ決まった。
子どもはソファで寝てしまっていたが、深夜0時過ぎ、母が搬送車に乗って施設を出て行くのを見届けて、子どもと帰宅した。
次の日、近所の安置所に面会に行った。
花が添えられ、体の周囲あちこちにドライアイスが入っているようで、あちこち盛り上がっていた。
最初に出た言葉は、「難しい病気だったね」
見守るしか無い、したいことをサポートするだけ、病気の進行を見てるだけ、、、だれもどうしようも無い。
お線香をあげて手を合わせた。母に初めて。
最期の様子を、発見した看護師に詳しく聞いた。
いつものようにトイレに立ったとセンサーで知らせが来たので、部屋に行って、個室内トイレの中に転ばずに、自分でNPPVのトレイを押して歩いて入ったのを確認、
母が人払いをしたので、部屋を出て行った。
2-3分後、その看護師が部屋に行くと、母はトイレから戻り、ベッドに座って右にうなだれた様子で顔色が悪かったので確認したところ、、、自分で息をしていなかった、と。
最後まで歩いていた。亡くなる1-2分位前まで歩いていたということ。
呼吸筋が徐々に衰え、おそらくトイレに行くたびに毎回苦しかったのだと思う。運動(トイレに行く)動作が酸素を使うから。このとき、ある閾値を超えたのだともう。
寝たままの方がもっと長く生きられたはずだが、兎に角動くのが好きな母だったので、その点はこれでよかった。またベッドに縛り付けて長生きするより、この方が良かったであろう。
また、最後まで水やジュース、牛乳を飲んでいたが、一度も誤嚥性肺炎にならなかった。母はもともと感染症に強かった。風邪もひきにくく、ひいてもすぐに治っていた。新型コロナもそれほど酷くなかった(恐らくALS発症するかしないか、の頃に新型コロナになっている)、なおかつ、肺炎球菌ワクチンを打っている。
それにしても急すぎた。心残りがある。
大事な人がALSになって、感じたのは、聞いていたような話とは別の看病であった。
ようは最後まで歩けたし、文字板によるコミュニケーションなど無い。高齢発症、球麻痺型で気管切開人工呼吸器をつけない場合はこうなる。
特に母は足腰の筋力はもともとすごくあった。骨も丈夫だった(火葬後、骨が硬く量が多かった、と火葬場のかた)、転んでも骨折しない。
ALSの最大の要因は加齢だそうで、歳を取って発病すると、多くの人は気管切開までやらない。
母の亡くなるまでの様子を見ていると、恐らく昔は、老衰の類で片付けられていたものを思われる。どんどん痩せ細っていった。
町の主治医も全くALSは疑わなかった。コロナの後遺症か、と思っていたようで。
先述したが生涯発症率約300人に一人。皮膚癌の倍。全然あり得る病気。判ったらかといって、治らない。診断も難しい。つまり血液検査とかレントゲンでは判らないので、初期に見つけることは困難。
「こんな症状が出ている、その症状がある他の病気を調べてもみつからない場合」というのが一つの大きな判定基準らしい。もちろんそれだけでは無いようだが。
一部、遺伝性のALSは進行を止める遺伝子治療薬が出来た。患者全体の数%に効く。
早く遺伝性ではないALSにも大きな効果がある薬が出来ることを望む。
(若干効果がある薬は存在する)
かなりの人数が発症している。社会的にも意義がある。
おわり
ALSになった母の話2
家の近所の総合病院のメイン玄関の前に来るまで到着した。
駐車場が数カ所に分かれているこの病院、急患受け入れから1番近い駐車場を狙って行ったが、奇跡的に一台空いていたのでそこに駐めた。
受け付けで「電話したものですが」と健康保険証、紹介状を渡した。
程なくして看護師が母を迎えに来た。話が通じていたようで。
「あ、歩けるのですね」
と母と一緒に救急外来に入って行った。
1時間くらいかかったが、突然、私が呼ばれた。
「お母さん、危篤です」
「二酸化炭素を肺から排出できない、という呼吸不全です。
酸素が足りないので多めに供給したら、肺の中が二酸化炭素で満たされてしまい、意識がもうろうとしている状態です。
気管挿管するかしないか、1時間くらいで決断してください。
気管挿管すると、老人の場合、ほぼ抜けなくなることが多い、管を抜くと殺人になってしまいます。ただ、これは本人つらいことで、ずっとそのまま生きていくのは困難です。若い人なら気管挿管しますが。
いまはNPPVという(マスク型の)人工呼吸器ですが、早いうちに決断してください。」
いきなり命の選択を迫られた。
すぐに妻子、弟家族を呼んだ。
皆が揃う前に私が決断を迫られた。
医師が
「そろそろ決断をお願いします」
といってもそんな簡単にできない。挿管して欲しいと言ったが「そんな簡単に言わないでください」と言われ、これは挿管しないで、死ぬのを待つ決断を迫っているのだな、と思ったが、、
母の意識がはっきりしてきたというので、「では母と相談しましょう」
となり、母と話している最中、一緒にいた別の医師が、
「でも数値改善してきていますよ」
と肺内部の二酸化炭素濃度が少しずつNPPVで下がり始めているのが判った。
そこで「このままNPPVで一晩様子を見ましょう」
ほどなくして家族が揃い、経緯説明と入院手続きを行った。
母はCCUに移ることになったが、入院病棟に入ると、コロナのせいで子供が入れない、とのことで、今のうち、うちの子とエレベーター前の、移動式ベッドの上で面会した。
「え、来てくれたの?」と自分の状況がまだ理解できていなかったようで。
危篤だったことは言っていない。
次の日、母を見舞いに行くと、CCUで完全看護状態ではあったが、NPPVをしていなかった。けろっとした顔をしていた。
もう肺のCO2濃度は改善していて、NPPVも本人取ってくれ、ということで外しました、と。
呼吸器内科の主治医の挨拶があった。
「呼吸不全で、これから検査して原因を突き止めます」
胸が苦しかったのは循環器が原因ではなかったわけだ。
「普通のレントゲンでは何も出なかったので、造影剤を入てCTを撮ります、リスクがあるのでサインしてください」
2-3日して、見舞いに行ったら、主治医が変わっていた。
普通病棟に移り、そこで何やら寝たまま、医師二人がかりで母に付いて、検査を行っていた。
「すみません、もうちょっとかかります」
その時の検査が終わって、
面会、帰り際、
「ご長男さんですか、脳神経内科の主治医です、
もう帰られますか?肺には異常が無いようで、実は、こんな風に呼吸困難になる病気はいくつも無いのです。
今、神経の病気を疑っています」
詳しく聞く時間が無かったのでその日は帰った。
忘れもしない、入院して9日か10日後くらいか、10月31日、世間がハロウィーンの日の夕刻、職場にいた私の携帯が鳴った。病院からだった。すぐ出た。
「主治医ですが、散々色んな検査をしまして、まだいくつか検査項目が残ってはいますが、
消去法で行って、筋萎縮性側索硬化症(ALS)か、もう一つ脊髄性筋萎縮症(SMA)か、年齢その他から考えて、おそらく筋萎縮性側索硬化症の可能性が一番高いです」
電話しながら職場の隅っこで全身の力が抜けて座り込んでしまった、、、、
ALS、筋萎縮側索硬化症、ぺるけさんがなった。知人に川口有美子さんがいた(彼女の母上がALSになって看護できる看護師が少ないので看護経験がある看護を中心にたてて、看護できる人を育成するNPOを立ち上げ、本を書いたら大宅壮一ノンフィクション賞を受賞)ので病気のことはある程度知っていた。徳洲会の徳田虎雄氏も。後から聞いたが私の大学の恩師も。知人の親も。けっこうALSを発症した人がまわりにいる。生涯発症率約300人に一人、およそ皮膚癌の倍の発症率。案外多い。
でもまさか自分の母親がなるとは。いままで大きな病気は何も無い、健康そのものの母だった。入院は盲腸と出産のみ。人生の最後で最も難しい病気にかかってしまった。
まだ一つ、脊髄性筋萎縮症(SMA)の可能性が少しあった。
実は簡易DNA検査で擬陽性であった。もしこちらであれば、光が見える。23年に認可されたばかりのゾルゲンスマ。病気進行がピタリと止まるが、老人での発症例が少なく、つまり治験も少なく、老人で効くかどうかは未知だそうだ。m-RNAの勝利の薬。薬価1.6億円だが、日本の健康保険と難病認定によって支払いは5000円くらい(収入による)。一回しか使えない薬。
病気がほぼ確定、ただSMAの正式な遺伝子検査がまだのまま(海外に検体を送る必要があるそうで)。後日外来で検査することとなった。難病申請はALSで先に進めることとした。
23年11月後半、主治医から病気の説明を母・家族交えて行われた。
「難病」
「治らないので付き合っていくしかない病気」
と、聞いて母は
「え?難病!?」
ようは疲れていてものを呑み込むのが出来なくなっているが、普通に歩けるし、どうもしっくりこないようだった。
そうではあるが、検査すると、通常の肺の中のCO2濃度も高くなりつつあり、慣れているから寝ないが、通常この濃度だと「寝てしまう」らしい。
あと、酸素不足CO2が多い状態は、どうも記憶力に難が出るようで。認知症の発症にも繋がるらしい。認知症には最後までならなかったが、記憶力が落ちている。
説明会の時に医師から聞いた話は後日忘れてしまっていた。。。
そしてここでもまた、決断を迫られたのは、気管切開をして人工呼吸器をつけるか、マスク型人工呼吸器NPPVでいくか。
いまのところ少ない酸素供給量の酸素だけで持っていたので、すぐの決断は必要なかったが、近いうちに考えてくれ、と。
母に相談したら、「そんな機械につながれて生きていくのは嫌だ」と。
複数回言ってみたが、母は嫌がったので、最期はNPPVで持つところまでとなった。
気管切開による人工呼吸器は、長く生きられる反面、死ぬタイミングを選べない。人工呼吸器を止めると、止めた人は殺人になる。
体がどんどん動かなくなり、意思の疎通が困難になる状況で生きていることに意義を感じられるかどうか。最近は脳波でパソコンをコントロールすることも可能のようだが、お金もかかるし、訓練もいる。母はパソコンなど触ったことも無く、これは難しかった。
眼球は最後まで動くケースが多いので、よくテレビで文字板の何処を見るかで文章を作り、会話(対話?)する方法もあるが、これも母のような高齢者は実はなかなか難しい。
母は球麻痺型といって、口・肺あたりから発症するタイプ。こちらの方が余命が短いらしい。最後まで歩けたので。。。
説明会の後、もう少し検査項目がある、それを検査した後、難病申請を行う。SMAの検査も残っているが。
退院も考える。一つが施設に入ること、もう一つは自宅に戻ること。
母はまだ自分がそんなに酷い状態とは理解していないようで、自宅に戻りたい、と。
私は腹をくくったが、なにせ日中は母以外誰も家にいなくなる。そこらへんをあちこちと相談することとなった。
病院も「自宅受け入れが整わないと退院させられない」とのこと。
母の妹が千葉に住んでおり、一緒に住んでくれることとなった。
酸素ボンベと酸素生成器の使い方を家族皆で学んだ。
酸素ボンベが常時必要なので、呼吸器内科の先生の診断によって身体障害者の申請も行った。
酸素吸入器があると、その部屋で火が使えない。IH調理器を買った。
23年11月末、ようやく帰宅。
訪問看護、訪問介護、訪問リハビリ、介護用品レンタル、薬配達、、、などなど、色んな契約書を書きまくった。指が疲れた。
ところが、母の妹も高齢、体調を崩した。後から判ったが、血圧が200を越えていたらしい。約1週間で母の妹は帰宅した。妹も80歳、環境の変化や持病がある。ちょっと無理をさせてしまったが、最後母と過ごせて良かったのでは、と今は思う。
ベッドやトイレ補助具なども設置した。あっという間に来てくれて設置していった。さすがプロです。
酸素ボンベと酸素生成器を借りた。とても安い。
入院中に病院の看護師が要介護度を認定して申請してくれていた。
さていつ介護度が決まるか?であった。年越しとなった。
また、何時難病認定が下りるか?11月末頃区の保健所に書類を出しに行った。
後に、たしか三ヶ月くらいかかり、その間の医療費の控除の申請を多量にした。
難病と診断-認定の間の医療費控除は後に補填される。認可されると
特定医療費(指定難病)受給者証
というものが発行される。毎年更新。これがいわゆる葵のご紋、
これがあれば医療費は母の場合月5000円maxである。その差額がでるわけ。
更に、身体障害者手帳も発行された。これで、ガソリン代かタクシー代の補助(タクシーを選んだ)、とおむつ代金の補助が出る。障害のレベルによっても違う。
おむつは介護保険からも出るが、若干障害者補助の方がお得(大きく違わない)。
難病は、介護保険、医療保険+難病補助といういろいろなところから補助がある。
日中、デイケア(施設)の契約を結ぶこととした。できるだけ日中は施設で預かってもらう事となり、朝迎えに来て貰い、夕方帰宅。また在宅の日や時間帯、訪問看護、訪問リハビリ。
医療は入院した総合病院に外来で行く事になる。
母が言うに、布団の上で倒れたら耳が聞こえなくなった、という。同じ病院の脳神経内科診療日に、耳鼻科の予約も入れて連れて行った。脳神経内科ではSMAの詳細な検査の採血を行った。SMAであることを祈った。
ラジカットの処方も退院直前から始まっていた。外来で処方され、近所の薬局に取りに行って、病名が判って、薬剤師さんびっくりしていた。
「おかぁさま、どんどん痩せられて、皆で心配していたんですよ、ALSだったのですか、、、」
ラジカットは後の24年1月に主治医の判断で処方をやめた。貧血の副作用が出てきている、効いているかどうか判らなかった、の二点から。
耳鼻科では、単なる中耳炎だった。後日、鼓膜に小さいパイプを入れる手術を行った。よく聞こえるようになった。
このときも酸素ボンベを引いて通院、混んでいて母を疲れさせてしまった。
任意医療保険が下りた。一日入院と判断された。
デイケア、行かない日は訪問看護、訪問介護、訪問リハビリ、長時間家に一人きりにさせない様に日程が組まれた。
そのように過ごしていて、
だんだんものを食べられなくなってきた。退院したばかりの23年12月に、胃ろう造成の手術を受けることとなり、また同じ病院に入院した。約2週間。
なんとか23年内に帰宅した。
また、このころSMAが陰性であることも判った。結果が出るまで一ヶ月以上かかった。残念。ただ、SMAは完全遺伝性なので、親族に発症している人がたいていの場合いるようで。それは無かった。
二週間に一回+緊急時にALSを得意とする訪問診療の医師が来てくれることとなった。長い時間家で一人にしない方策を練ってくれた。ケアマネージャーはデイケアのかたに決まった。
胃ろうを造設しても、食べ物は若干まだ食べられた。
ちゃんとしたおかずを食べたのはこの24年正月が最後であったか。プリンなどはその後もだべていたが、最後に食べたのは、牡蠣フライだった。美味しいと。一個は食べられなかった。
家で正月を過ごした最後の機会であった。家族が集まった。
妻も色々柔らかい食べ物を用意してくれた。
食べる場合は「とろみがあるものを」としきりに言われた。しかし、母は嫌がった。さらっとした水で胃まで落とさないと飲み込めないからだ。
実際、誤嚥したことはほぼなかった。無くなるまで水は飲み続けたが、誤嚥性肺炎は起こさなかった。
胃ろうの栄養剤や薬の注入を看護師から指導を受けて学んだ。
朝は私が、会社に行く前に、朝食と朝の薬の胃ろうを行った。多くの場合、夜も私が行った。午前中デイケアに行くときは妻が手伝ってくれた。毎回酸素生成器を持っていった。昼食はデイケアの看護師にお願いした。処方されて届けられている栄養剤を、定期的にデイケアに持っていってもらい、お昼を胃ろうで注入して貰った。
夜はまた私が胃ろう注入した。
大変だった、疲れたが、全然嫌では無かった。
そんな日々が続いた。
デイケアは楽しそうだった。いろいろものを作ったり。家でぼーっとテレビをみているよりはよかった。だんだん言葉を発するのも難しくなってきてはいたが、コミュニケーションは取れているようで。いざとなれば筆談で可能であった。
まだ全然手足は動いた。歩けた。二階に支えながら自力で上がれた。
うちの子も、おばぁちゃんと寝たい、ということで、介護ベッドの横に布団を敷いて母と私と一緒に寝た。
夜、布団を剥いでいたうちの子=孫に、ベッドから起き上がり、布団を掛けたくれた母。
うちの子も気づいていたそうだ。
母の携帯の位置を私のスマホと共有した。あ、いまデイケアなんだな、あ、デイケア出たな、など職場に居ながら確認できた。
24年2月初旬
そのような生活も1ヶ月足らずで終わった。
訪問診療のALSを多く診てきた医師が、「そろそろNPPVが必要」と判断。
これに慣れるのが大変であるということで、一旦入院して24時間見守られた状態で、慣れましょう、ということになった。
在宅中にNPPVが手配され、フィットするマスクを選んだ。
付けてみて「これ、ダメ」といって外したがった。
でも、付けていれば息が楽になるのは実感したようだった。
訪問診療医が総合病院に診療情報提供書をかいてもらって、連絡をしてもらえた。
病院に相談、救急車を呼んで、来てくれと。
準備をして、救急車を呼んだ。走る救急車に乗るのは初めてだった。
24年1月後半、再び同じ総合病院に入院した。
3へ続く・・・
ALSになった母の話1
乱筆ながら、母の記録を書いた。
誰かの参考になれば、と自分のまとめとして。
1-3まである。
(どきどき修正・加筆するかも、誤字脱字たぶんかなりあると思うがご容赦ください)
二世帯住宅で隣に一人で住んでいた母のALSの記録。
22年9月、お彼岸のころ、母83歳なったばかり、今から考えると、徐々に症状が出だしたのだと思う。
やけに疲れる、胃袋が小さくなったのかあまり食べられない、小鉢で十分、
というのでちょっと心配になった。
このとき母の兄宅を訪れて、兄妹二人で写真を撮ったのが二人の最後の会話となった。
(母の兄は母より数ヶ月前に施設で亡くなった)
22年11月、子どもの七五三、でもこのころはまだまだピンピンしていた。区内の大きな神社で祈祷してもらうこととなり、初めて行くので自分で行き方(バスでどこから乗るなど)をあらかじめ調べていて、当日早めに行って祈祷の予約をしてもらえた。
22年年末、家族全員で新型コロナに罹患した。このときもまだ元気。大きな咳をしていた。
年末か年始か、頸椎症になった。首が猛烈痛いと。
外科(家から800mほどに位置する)に一人で行って、頸椎症と診断。首頸椎のヘルニアである。椎間板が飛び出て横の神経を圧迫していた。注射とマッサージで改善してきた。今から考えると、これも筋力が劣ってきたので弱いところに出たのであろう。
母は日曜日晩ご飯を作って皆で食べていた。週1回くらいは。
これをこの頃を境に、やめることとなった。やはりつらいと。
23年2月、はっきりと「これはおかしい」と思える症状が出た。
激やせである。
「体温計が上手く測れないとおもったら、脇の下がえぐれるほど痩せていた」
週1回は内科(家から1.2km)、週1-2回くらい外科リハビリに通っていた。
内科の主治医は「コロナの後遺症ですかね」
この頃若干咳は残っていたが、母は案外感染症に強く、老人にしては早く回復していると思う。
どんどん痩せていく母、、、ちょっとただ事ではない。
主治医もいろいろ検査したが判らず。
23年3月、すこし呂律が回らなくなってきた。
主治医は脳の病気を疑い、すぐにCTを撮った(主治医とは別の近くの総合医療センターにて)、脳梗塞等は何も見つからなかった。
23年4月、飲み込みが出来にくくなってきた。ようは嚥下障害。
栄養が足りていないので、栄養点滴を週1-2回、内科で打つようになった。
エンシュア(経口栄養剤)なども処方された(これはなつかしい、23年前に末期癌の父も飲んでいた)。
つまり一週間のうち、2-3日は内科か外科に通っていた。往復2.4kmか1.6km歩いていた。このころはまだ栄養点滴を打つと元気になる、と言っていた。栄養が足りていないのだ。あとビタミンやカロリーのある栄養ジェルも飲んでいた。これも飲むと元気になるそうだ。
今から考えると涙が出てくる、、、ALSで全身の筋力が衰えてきているのに。
この頃歩いていたから、死ぬ直前まで歩けたのであろう。
23年5月、食べ物を時々戻す(吐く)ようになった。
主治医は胃がんを疑った。それはそうだ。僕もてっきり「これは胃がんだろう」と思った。吐いて、痩せてしまう、のはまさに。母は5年も胃カメラをやっていなかったし。
胃カメラには僕も半休をとってタクシー予約して同行した。
結果、胃には異常は何も無い、胃は以前よりポリープも少なく綺麗だった。拍子抜けであった。
とりあえず癌では無くてほっとしたが、逆にいよいよなんだか怖くなっていた。なんだろうか、本当にコロナの後遺症なのか?調べれば確かにそのような症状の後遺症はあるようだったが希だった。
その後も点滴と外科のリハビリに通う日々が続いた。
いろいろ柔らかく食べやすいものを工夫した。
ただ、少しずつ状況は悪化しているようで。家事も少なくし、僕が手伝うことも多くなった。
23年9月くらいだったか、僕がたまたま通勤途中に駅の看板で目にした
「もぐもぐクリニック」
の看板。嚥下障害の文字が見えた。
母に話して、「ここに相談に行ってみようよ」
家から車で、混雑が無ければ30-40分位なのだが、毎回1時間かかった。
母を乗せて。主治医(内科)に紹介状を書いて貰って。
最初に通院した際、全身の筋肉量と、飲み込みの様子のレントゲン動画を撮影した。
結果、
・全身の筋力が衰えている。やはりコロナが影響している可能性は否定できないと。
この様な症状は最近増えている。コロナウィルスが直接的に影響している可能性と、家に閉じこもりがちになるのでその影響の人が最近多いと。←?この部分、毎日1k以上歩いている母が閉じこもっているのか?なんかおかしい、と思った。
・飲み込みで、いまのところ誤嚥性肺炎を起こすような麻痺は起きていない。
・舌の飲み込む筋力が普通の人の1/3くらいになっている。
・食道の途中3カ所ほど、呑んだものが停滞していて下まで落ちていかない。
これは、食道はまわりが筋肉で覆われて、ぜん動運動によって呑んだものを胃まで押し下げていくのだが、これが機能していない。全身の筋力が落ちるとよくあること。
全身の筋力を鍛えましょう。←ここも違和感。
さすれば改善します、と医師。
もぐもぐクリニックには月二回通って、飲み込みの筋肉を鍛えるEMSをやることになった。
EMSとは、そう、楽してお腹周り痩せられる、とテレビショッピングでやっている、電気の刺激で筋肉を強引に動かしてしまう、あれである。
頬、顎に合計4カ所電極を付けて、電気を流し、飲み込み筋肉を収縮させて鍛える。
こんなのがあるんだ!!
あと食事指導、MCTオイルがカロリーが高い、等、いろいろ教えて頂いた。
23年10月、いよいよ時々歩いていて足が前に出ないことがある、という状況になった。子どもの運動会もやっとこさ一人観に来ていた。
ちょっと大きな病院に行った方が良いのかな、と思っていたところ、
母が「お風呂の湯船に浸かると胸が苦しい」という新たな症状が出た。このことで、主治医に相談、近くの総合病院に、ようやく診療情報提供書(紹介状)を書いて貰ってきた。循環器病を疑っていた。
その次の日、土曜日であった。もぐもぐクリニック受診日で、連れて行くと、医師から、
「酸素飽和度が肺炎の人並みに低いです、明日は日曜日なので今日中に大きな病院で診てもらった方が良い」
母のEMSの治療中に、持っていた紹介状宛先の総合病院に電話をした。
いろいろ受け入れ担当と話して、「通常は普通に予約を取って貰って来て貰うのですが」とのことだったが、今日別の病院で今日診てもらった方が良いと言われたと告げると、「紹介状を書いた医師で無くとも、今日の患者さんの様子を診た医師と話したい」とのことで、もぐもぐクリニック診療後、その総合病院からもぐもぐクリニックに電話をかけて頂き、折り返し僕の電話に総合病院からかかってきて、
「この状態ならば本日、急患で受け入れられます、何時に来られますか?」
車中(近所に駐めて電話をしたり待っていたりした)だったので、カーナビに病院の住所を入れて、
「11時ちょっと過ぎです」
「お待ちしております」
母を乗せて総合病院に向かった。
2へ続く・・・・
健忘録・OldMacのiTunesのデータを新しいMacのMusicアプリに一括で移行する
古い、音楽編集用MacBookProはiTunesにしか対応していない。
iPhoneを新しくしたら、音楽を転送できなくなった。
これは困った。
で、M4 MacMiniをメインに導入したので、これに音楽ファイル(外付けドライブに指定)を移行することとした。
いろいろやってみて、ネットで調べたりして、なかなか上手く行かなかったが、以下の方法で一発で移行できたので、書いておく(この方法はネットでは見つかっていないが、書かれているかもしれない)。
環境は↓の図のように、古いMacは外付けドライブにWAVファイルを入れている。iTuensで指定すれば簡単にできる。

新しいMacも内部ドライブは容量が限られているので外付けドライブにMusic用ドライブを指定した。
健忘録・MacOS12(Monterey)不具合対策(?)Dockからアプリを起動できない
メインで使っているMacMini、もう9年前発売のIntelモデル、ずっと10.15(Mojave)で使っていた。これよりバージョンをあげると動かなくなるアプリが多かったため。
だが逆に動かないソフトも増えてきたため、今のSSDに10.15を残しつつ、別にSSDを外付けし、手術して内蔵にした。そのSSDのOSを徐々にバージョンアップして、12.6(Monterey)にした。
ところが、不具合、Dockから起動できなくなるという不具合。
ネットを調べると同じ症例と対策が若干あるのだが、
・対応していないアプリをログイン項目に登録していると起こる症状
らしく、そこらへん、いろいろログイン項目を削除してみたが効果無し。
・アクティビティモニタにて「Dock」を強制終了する
直後にDockが再起動するが、、、電源を立ち上げ直す、リスタートする、と元に戻ってしまう。。。いちいち、電電立ち上げ後にこれをやるのか、、、、💦

・リマインダー、カレンダー等のお知らせから起動
右上に、リマインダーやカレンダーのお知らせがその時間になったら出るので、それをクリックすると、リマインダーやカレンダーのアプリが起動する。
その後、ほかのアプリもDockから起動できるようになる。

それもなー、、、、
と思っていると、セキュリティ関連で12.7へアップグレードのお知らせ。
早速アップすると、、、、Dockからの起動が正常になりました。。。。😌

・SSDでも若干遅さを感じる。がこれ以上このマシンでのOSはアップできない。
まー、後1-2年、これで頑張る。